劇のある1日

只々日々

今日、地元の大学生がゼミの活動の一環として取り組んでいる演劇づくり、その発表を観に行ってきた。

「創造・想像と実践、協働のエクササイズ」と謳われているこの取り組み、もう10年間続いているそうだ。僕が演劇活動していた間、ずっと関わりの深かった方々が主導しているものなのだが、僕は今回初めての観劇になる。

劇団を辞めてから演劇との関わりの一切を断っており「劇を観に出掛ける」とか本当に久しぶりである。であるが故に自分でびっくりしたんだけど、家を出てから帰ってくるまでの脳の爆発的な働きぶり、自分の中に出来てしまっているチューニング、異常だなと気付いた。

そう、本当に色々なことを考え、思い出したし、まあだから、そのうちのいくつかを書き残しておきたい。

一つ目は、かしこまって他人に会いにいく、ということについてかな。

会場は大学内の或る一室、特に演劇用に設えてはいないざっくばらんとした大部屋だった。なんの気なしに入ろうとして「こちらで靴を脱いで下さい」と案内された時、僕は不意に思い出した。

そうだった。こういう場所に入る時って、他者の領域に侵入する感覚があったよな、と。それって自宅を出た時から筋立てとして始まっているものだ。生活との境界を超え劇場内に入れば、空の舞台へ向いた席に、座る観客各自の持ち寄る期待感が漏れ漂っている。これ「もう開演しちゃってる」って状態だよなと思ったりした。

劇が始まるまでのストローク、身体的体験を結構まざまざと「演劇の一部だな」と感じた。なんだろうな、観劇するということの、わざわざ出掛けるって感じ、それ、すごい強みなんだよな。

二つ目は、クリエイションとコミュニケーションの違いについてだ。

学生さんたちは皆爆裂に魅力的であり、真摯に取り組んでいて、大変良かった。感心したのは「ぽいことを無理してやる」嘘がすごく少なかったことだ。演者全体にオープンで力まない気分があり、それが作品を助けていた。

だから、観客がまっすぐに観、反応できるのだ。観客みんな楽しんでいたと思う。誤解を恐れずに書くが「やろうとしたことができていなくても、何をやろうとしているのかはわかるので、別にいい」という状態、何の問題があるというのか、だって相互のコミュニケーションが成立してるんだもの。素晴らしいなと思った。

最近、演劇とセレモニーのことについてよく考える。演劇内のクリエイションのことと、セレモニー内のコミュニケーションのことについて、考える。その二つにうまく橋が渡ったら、すごい豊かな世界になるような、そんな妄想している。

その視点から観ても、大学生の小さな演劇発表、すごく興味深かったし、良い時間が流れていたなと思うのだ。

他にも沢山のことを思ったのだが、長いし、別にまとまってもいないので、もうやめておく。学生たちと、機会をくれた夫婦に感謝したい。