おどる、うたう。
そのふたつ、あまりよくわからない。どちらもこころとからだの解放が必要なのだと思われ、僕はこころとからだの解放から縁遠い人生があまりに長い為か難しく、恥ずかしく感じるし、技術や経験、センスを問われるようにも感じられ、おどる、うたう、自らと隔たった行為と捉えているのが正直なところだ。
おどる、うたう、まあしかし、それは先入観というか、誤解なのだろう。
おどる。例えば部屋でリラックスしている時、体の節々が自由に抑圧なく動作していて、そうして居間から台所へ行く時の動きとか案外、踊っているのだ、と言えるのかも知れない。
うたう。例えば親しい友人と自由闊達に会話する時、声の音階は自在に上下し、長さも適宜に、相互にリズムの共有も行われて案外、うたが歌われている、と言えるのかも知れないのだ。
おどる、うたう。そのふたつをそのように捉えなおして、僕は表現している。それは演劇をやっていた頃と同じなわけなんだが、今音楽の領域上に表現を再展開しようとするならばそれは「うたと認識されていないことばや声を音楽の構成要素と積極的に出合わせ楽曲の姿を成す地点に結実させる」ということで、それを更に世の通常のおどるやうたうのシーンの中の「心身の解放と芸の披露」に拮抗する程に高めようとするに至っては、そんなもん無理難題なのでは、と挫けそうになったりもするのだった。
でもどうだろう。最近になってようやくインスタやtiktokを見るようになったんだが、知ったのは、ことば、声、演奏、振る舞い、それらがどんどんジャンルを超えて混じり合っていて、ひと昔前なら難解で抽象的だとされていたような実験的なものでさえ、うまいことエンタメにパッケージされてシェアされているんだなって光景だ。
そう、みんな飽きたらなくなって、どんどん新しい場所を探さずにはいられない、開拓はすすんでいくのだ。僕が楽団灰ホトラを立ち上げステートメントを作ったのは2022年だった。その頃とはもう状況が違うのだろう。ましてこの先AIが表現のシーンをどう変えていくか、後戻りなどあり得ないだろうしな。
そうだなあAIのことを考えると、今年、来年までに、表現をひとつ確立させるということに意味がある。5年後とか、クリエーターの置かれている状況、全く違うだろうしな。今僕が、僕の人生の中でミックスさせて作っている表現、早く具現化しないといけないんだろうと思う。

