パフォーマンスる

只々日々

灰ホトラ「ひねくれもす」展示、2週目の土日はパフォーマンスディだった。

アーツ前橋「やなぎみわ展」においても演劇の上演が行われており、これにこっそり連動するようにして設定されていた灰ホトラのパフォーマン日程であるが、大変に良いものとなったと思う。

灰ホトラの観客はいつも大体「釈然としない」顔をして去っていく。ところが今回のパフォーマンスにおいては、相当はっきりとしたポジティブなリアクションが幾つか存在した。イベンターやアート関係者、詩人や音楽家、学生や近所の人、そして演劇仲間から。

「届かなさ」の中に沈んだ関係だって少なくなかっただろうし、別に浮かれているわけではないんだけど、だけど僕は「自分の作品を手放しで評価される」という経験を、ほぼ持ったことがないので、特筆すべきことなのだ。

そしてそうした高評価をもたらしたのは、やはり、展示空間に役者の身体があった故だったろうと思われる。役者の実存の向こうに、彼女たちの断片映像を映し、生声と素材内の言葉なら、複雑に絡み合いながら空間に浮遊している。役者の身体を照らすプロジェクターの光は、照明であり、情報でもあった。そうした多層的でありながら強度を失わない光景が、たしかにそこに、存在した。

戯曲内では傷をなぞるように幾つかのフレーズを、演技体では時間に彫刻するように幾つものバリエーションで、リフレインする。展示方法が観るものに咀嚼を促す為の手続きを与えたことも手伝って、感覚的かつ対話的な関係を築き得たのかもしれない。

そうして、ぞっとする。この経験は、ジャンルの外側に向かう行程の中にあった。紆余曲折の果てに灰ホトラの表現は「演劇というジャンル」にたしかに刻まれている。けれど、どんどん演劇コミュニティーから離れていくのは、なぜなんだろう。

うまくいっても、失敗しても、どっちにしろ孤独が深くなるようで、それが少し気になる。今、僕に達成感はある。同時に、いやに、寄る辺ない場所に立っていると感じるのだ。

まあ、分かってるんだよ、仲間を、理解者を、もっと増やしていかなきゃならない。足元と海の向こうに、いると信じてゆく。