日記長めす。
「ひねくれもす」展示終了から一月以上程度経過している。SNSで軽めに終了の挨拶をしたきりで、まともに書き残していないように思うので書ていおく。
展示終了間もない稽古場で、役者と振り返りを行なった。作品の狙いはなんだったか?達成度は?評価は充分か?多様な反応があったか?対話的だったか?足がかりとなったか?ディレクターやクリエイターとコネクトできたか?他者を巻き込める力場となったか?挑戦はあったか?そうして、現状からの出口は見えたか?
検証すべきことは様々だろう。一方で無理めでも一言で言って済ますことは可能で、こんな感じになるだろう。
「灰ホトラは屋台骨に著しくカルシウムが足りないものの、表現集団として世界に認められることを目標としているのだし、前進はあれど、いまひとつだったのではないか」てな風に。
僕は「ひねくれ」をコンセプト立てた視点や、実施過程、完成映像のクオリティ、そして展示期間中のパフォーマンスなど、ハイレベルなものを提出したと信じている。来場者から「前橋にはオーバースペックだ」という評価もあったが、地域に希少な現代演劇する集団として戦果を残したとは思っている。
断っておくが、基本盛大に相手にされていないことはゲロ吐き倒すほど承知している。僕には演劇そのものだと信じられる「Take Numbers」はしかし、演劇、映像、詩、音楽、いずれの文脈にも当て嵌め辛く解釈が難しいのは理解できるし、「みんなが大好き」を目指してるわけでもないのであるから、「届かなさ」に傷を負うのは最低限にすべきだろう。
それから、前橋文学館「犬神」の本番が終了している。
「猫町」「ひねくれ」「犬神」と、ぱつぱつな展開に、随分と顎が上がった。犬神は朔美さんから「終始音が鳴っているような作品にしたい」と依頼されたのもあって、作成した音源数は60に近いものとなった。
これまでの劇伴制作経験の汎用に加え、今作では「ひねくれ」の役者達の声を録音し素材にするなど、それなりに僕の総力戦であった。作った音源の全てに、その使い方に、自信を持って望んだ。が、本番のオペレーションで信じがたい大ミスを犯し、とんでもない腰砕けな演劇経験となってしまった。犬神メンバーには申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
文学館には長く劇場スタッフを務めてきたベテランの方がいる。大ホールで行なった「猫町」でのスタッフワークは素晴らしかった。文学館内の公演でだってそうだが、この人の強烈な現場力に支えられている部分が相当にあるだろう。
僕にはこうした現場力や親方力、要領といったものが欠落しており、一時期演劇から離れていたのもその辺が原因だ。僕のパラメーターは、執筆、DTM、イラストレーションといった机上での個人的な創作、非現場的な能力に全振りされている。しかし音響オペでは、作曲する時とは全く別の能力、現場力こそが必要だった。舞台表現の現場で培われてきた素晴らしいスタッフワークを見ると、自分との落差に驚くし、尊敬の念を抱きもする。
灰ホトラでは、自己適正に応じた活動を行なっているし、そもそも、ここ数年は劇場システムから距離を置くようになってきている。そのことが僕の演劇を自由にするが弱くもした、ということだろうか。僕にできることが限られているのなら、分業したり、他に頼ったり、甘えたりできなけれだめなのだろう。今回のことで言えば、有能な音響スタッフとの人脈を持っていないことが問題だと考えることだってできる。それらを含めて「演劇する力」なんだから。
孤独を誇りにするのは思春期ぐらいまでだろうが、40を過ぎても思春期が終わっていない。そういうやつは邪魔だろう。力を分け、助けてくれた、共に歩んだ、理解を示してくれた、人達の顔を思い浮かべよう。