欅坂46のラストライブが終わったし、これまで思っていたことを書く

只々日々

■出会った頃など

10月12日、13日に配信されたラストライブを持って、活動休止となった欅坂46。僕は欅坂のファンになって以降それなりの、思いや時間など彼女たちの活動に捧げてきたように思われ、この機会に折角なので、少し自分の考えや思ったことなどを、まとめておきたい。

「これまで全くアイドルに興味がなかったのに欅坂46を突然好きになってしまった」という人は、欅のファンに少なくないだろう。僕もそうだ。「アイドルなんてものにはまってしまった」という当時の、自分自身への戸惑いを、よく覚えている。好きになりすぎて我慢できなくなり、おっさんが自らの「アイドル好きぶり」を初めて口に出して人に伝えた時のあの怯えは、自爆スイッチを押す感覚に近かった。今は堂々としたもんだが、恥ずかしかったな。

はじめて「けやかけ」を見た時「真っ白」のCMが流れていたので、欅坂を知ったのは2017年の夏頃だろう。深夜のアイドルバラエティーからyoutubeのMVへ、やがてそれ以外の彼女たちの活動、「ブログ」「こち星」「誰徳」「bingo」、歌番組や雑誌記事などへと、誘われていった。

■秋元康とクリエーターチーム

出会った時から今まで、欅坂に対して一貫して思い続けていることがある。欅坂の魅力は楽曲の表現にあり、その表現はほぼ池田、新宮両監督、そしてTAKAHIROに由来していると。活動全体を見渡せば、けやかけMCの澤部佑が、欅坂のセンターだと割と本気で思っている。問題はここに秋元康を並べたくない、ということだ。心底すごい人だと思うのだが、なんなんだろうなこの人の「尊敬したくない」感じは。欅坂の楽曲の素晴らしさを語るという時に、氏のことを除外することなど不可能だろうに、それでも、なんとか頑張って、無視しようとしている自分に気付いてしまう。

これはちょっと不思議に思うところで、実際「秋元康オタク」ってあんまりいないんじゃないかかって気がする。メジャーシーンのこれだけ巨大な存在で、沢山のオタク共の欲望の中心に立っているこの老人の、「奇妙な愛されなさ」の正体はなんだろう。

一点、僕が秋元康に「いいな」と思うことがあるとすれば、多くの作詞に明らかな失敗があるところだ。いっぱしのミュージシャンなら絶対やらないような、くそダサいワードの選択や、語感と旋律の不調和や、ことばの重量や容量の不適切が、頻繁にある。すっごくある。これらの失敗が逆に「作家の署名」のように感じられる時、やや愛らしい。

僕は平手が秋元を破壊し、アイドルシーンをクラッシュさせることを夢見ていた。NGTの問題もそれを後押ししていたように感じる。のだが、まあそうはならなかったし、むしろ櫻坂への改名には、メンバーへの服従や搾取を強化するか如くの、不吉な予感すら、しないではない。

■池田新宮TAKAHIRO平手with澤部

欅坂の「いや冷静に考えると別にそんなに名曲でもないよね」という、どこか形の悪い楽曲たち。だがこれが、池田新宮TAKAHIROズの力で強力に押し上げられていく。平手の反アイドル的な振る舞いは却って裾野を広げ、巻き込む人々を増やしていった。他方タレント活動面では、秒で沈没するレベルの地獄空気冠番組を航海させ続けた澤部佑の手腕によって、ファンは沢山の「メンバーへの思い入れ」を得る機会を持ち続けることができた。

ぶっちゃけ、この「思い入れ」なしに、欅坂の楽曲たちはどれだけ「そんなに名曲でもないよね」を超えられただろうか。

いや本当、澤部佑の能力は特筆すべきものじゃないのか。岩井の言うように澤部はクリエーターではないだろう。だが、みんなが岩井の魅力を知る為には澤部佑が必要なのだし、彼以上の適任者は到底考えられない。「地上波バラエティで問題児欅坂46を楽しむ」という超絶難題、まして4th期以降であってさえ、冠番組の質を一定に保ち続けた澤部は凄いよ。それは本当に他の欅坂クリエーターチームの仕事と対等か、それ以上だ。

平手を触媒に、数名の強力なクリエーター(with澤部)がその能力を遺憾無く発揮する形で、楽曲の魅力は醸成されていった。MVの牽引力は尋常じゃないどころか、楽曲の魅力のほとんど全てと言いたくなるレベルだった。結局の所、要は「MVの出来=楽曲の出来」であり、これがライブ演出にも引き継がれていく。TAKAHIROの振り付けと映像監督の創造力で、欅の表現は非常に質の高い、豊かなものになっていった。

■平手友梨奈

秋元の作詞に対面し、作家たちがそのリアクションに選んだ表現方法は、本当に独創的で、素晴らしものばかりかった。この作詞家と、監督、振り付け師の奇跡と呼べるような関係性が、欅の表現を良いものにしていたし、常にその巫女となり続けた平手は、やはり異常な才能だったろう。

ラストライブなどを観るにつけ、平手以外にも欅の表現は可能だと思える反面、作家たちの創造力を喚起する起爆剤となりえる偶像は、平手以外にはいないだろうとも感じてしまう。作家にとっての、「こいつと遊んだら楽しそうだ」「こいつとなら面白いことがやれそうだ」「好きなことを表現できそうだ」という存在。作家が興味を持つのはそういう人だけだ。それ以外の人は全て背景になってしまう。

■メンバーたち

平手以外のメンバーを背景だと僕は思わないが、しかしなにをどう考えても、平手なしに欅が文化のシーンに「出来事」として刻まれることはなかっただろう。平手が脱退するまでの他のメンバーの日陰ぶりには率直に言って同情するし、「本当によく頑張っていたな」と思う。

ラストライブで一番胸を打たれたのは、尾関のエピソード場面で映った、彼女の後ろ姿だった。

他のスタイルの良いメンバーたちと比べれば正直朴訥としていて、「特別な身体」とは言い難いその「普通の背中」に、背負い続けてきた沢山の思いの全てが、一遍にフォーカスしたように感じて、涙が溢れた。

尾関の活動は決して華々しいものではなかったが、番組でもパフォーマンスでもポジションを熟し、こち星を任され、仲間を思いやる眼差しを絶やさない彼女は、メンバーにもファンにも愛されていたと思う。そんなに気に留めてはいないメンバーだったので、自分でも驚いた。

そう、いろいろなメンバーがいる。ある時期までの欅の21人非選抜は、ひとつのコミュニティーのありようとして、理想的に見えたものだった。天才もへっぽこも優等生も悪ガキも、ふるいにかけずそこに居させるということ。志田や米さんや梨香の存在が分かりやすいだろうか。不真面目でも不人気でも不能でもいい。共生のイメージを投影して、見たのは束の間の夢だったと、今になれば思うのだけれど、まあその辺の歪さは映画にも描かれていたかもしれない。

■香港

ラストライブを終えて、斎藤は「みんな良く踏ん張ったよね」と言った。5年の間に、神輿は砕け散り、まとめサイトや文春の収益の為に酷いゴシップが撒き散らされていった。夢や理想がある意味瓦解し、目標がプロジェクトを閉じることに変わる。サカナクションの山口があまりにも的確に表現してしまった「摩耗」と「研磨」の違い。その「研磨」が綺麗事ですまされないのは、末期の平手の様子や、度々見た菅井の悲壮な表情からも伝わってくる。アイドルプロジェクトに欅のコンセプトを持ち込むことの矛盾が、ボディーブローのように効いてきて、そしてそのダメージは、ついに昇華しなかった。

けれど、消費文化の中の物語が単なる嘘や気休めでない、ほんとうを喰う虚構となりうることを、欅坂は多少でも示した。欅坂の演劇性には(そのばかみたいなところも含めて)いつも身につまされる思いがしたものだ。新しい場所へ向かい、そして欅坂は壊れた。そのドキュメントが残した声や傷を忘れたくない。

■櫻坂

ラストライブは面食らう勢いのとんでもないレベルのものだった。過去一のパフォーマンスに溢れ、素晴らしいスタッフのチャレンジもあった。最大の情熱を最小の針の穴に通すような、思いと緻密さに支えられた表現たちは、これまでライブに賭けて頑張ってきた活動の賜物だったろう。

ただ、欅坂から櫻坂へバトンを渡すという自演が、必ずしも上手くいっているとは思えなく、なぜなら「誰鐘」を含め9th以降の未発表曲たちが、「平手後のグループのあり様」に相応しいものばかりだったからだ。「コンセントレーション」の完成度はすごかった。「砂塵」を笑顔で表現させたTAKAHIROってやっぱりすごい。「deadline」は本気で編曲して音源作れば櫻の1stでも良かったんじゃないか。「10プー」も2期生曲としてなら最良のものだ。またこれら全てのライブ演出や撮影が、滞っていたMV制作を補って余りあるものでもあった。

創作と運営の噛み合わなさなのか。様々な都合も事情も勘定も、運も誤算もあるだろう。今後どうなるか全然わからないし、秋元や今野に特別の期待もない。山崎天には天井の見えない期待を感じるんだけど。本当に良いメンバー、現場チームだと思うんだ。こんだけ長々書いといてもこれを言うのが恥ずかしいのだが、辞めたメンバー含めて、1期も2期も全員含めて、みんな本当に大好きである。

高橋監督が「大人の責任」という問いをTAKAHIROに突き付けたのには、本当にきついものがあった。だがそれは問題の本質だ。欅坂のファシリテートには問題があったのかも知れない。また、コロナでもミソジニーでも、いずれアイドルのキャバクラ商法を終わらせるだろう。無邪気やビジネスで彼女たちを疲弊させ、その消耗を楽しむようなことは、やはり終わりにすべきなのに違いない。

演劇では、かつて小劇場を中心にして醸成された演出家至上主義を否定し、役者やスタッフに重心を置きつつヒエラルキーを固定しないような、より対話的なものづくりへと変化していった。櫻坂は、アイドルシーンはどうなっていくのだろう。たとえ彼女たちの苦悩が深くとも幸につながるなら良い。ただ、理不尽の少ないことを望んでやまない。