音楽と蛾


「音楽と蛾」の構成要素。 


現代の日本、北関東の或県、山間にあるが拓けてはいる街。 
その街の一角にある、定時制高校の教室のひとつ。 

「風呂」とあだ名される教員の、同好会を作らないかという提案の元に、集められた5人の高校生。 
彼等がそれぞれに抱えた、他人と世界への違和は、小さく、大きく、揺れ動きながら、 
一つの物語を紡いでいく。 


「こえ」は、学校の壁に、蛾の絵を描いてる。 

一年前、彼等の住む街からそう遠くない場所で、多数の死傷者を出した、山火事が発生した。トネリの木の多く自生するその森には、「オオトネリガ」と呼ばれる、蛾の希少種が生息しており、絶滅が危惧されている。 
 こえは初め、ただその蛾を美しいと思って、絵を描いた。昔から、絵を描くことが好きで、ただ、描きたいと思ってそうした。ノートに描かれたオオトネリガは、やがて、教室の壁に、廊下の壁に、ロッカーの隅に、そうして学校のあちこちに、描かれていくことになる。彼女は誰にも知られず、その奇妙な落書きを続けている。彼女は、自分がどうしてそうしたいのか知らない。 

こえは風呂に、「君の趣味を生かさないか」と、誘われた。 


「だいご」は、自らの能力を認めて欲しいと願っている。 

ベースを弾く能力をである。中学の時から、熱心に打ち込んでいるベースの腕前は、中学の時「けん」と一緒に結成したバンドの失敗によって、日の目を見ないままでいる。 
彼のベースを弾くことに対する、彼の愛するベース演奏のある楽曲に対する、思い入れの強さは並大抵でない。実際相当の腕の持ち主であるが、問題は、彼の協調性の無さにある。 
自分と他人の思い入れを、調整する術など、今の彼には持ち得ない。傲慢だからなのではない。繊細すぎるからである。 

だいごは風呂に、「お前の腕前を発揮する場所がある」と、誘われた。 


「きた」は、仲間と分かち合った感動を、もう一度得たいと願っている。 

中学の合唱部の思い出にそれはある。大会に向けて、仲間と必死に努力し、価値観を共有し、ほとんど無防備とも言える程の前向きさで、臨んだ日々。その時と同じ様な出会いや時間が、高校にはなかった。自分を肯定出来る場として、あまりに明確な回答としての、合唱部の姿が彼女にはある。それは、関心の無い他人には所詮押し付けがましいものであるが、後退を続けられない。彼女は退屈なのである。 

きたは風呂に、「きたがのびのび楽しめる集まりを作ろう」と、誘われた。 


「けん」は、手駒で見出せる発見を待っている。 

だいごと一緒にバンドに打ち込んだ時期があり、ドラムを叩くことが出来る。音楽に対する思い入れは、だいごに劣らず、またそれが二人の確執の由来でもある。彼は自分の価値観が他人に響かないことを知っているし、その差異を測ることが出来る。その冷静さに自惚れはあるが、目立たない。こえが蛾を描いている犯人だと知る、唯一の人物である。 

けんは風呂に、「だいごを誘ったから」と、誘われた。 


「へーすけ」は、友達が欲しい。 

その想いはシンプルで、屈折していない。友達が欲しいが、友達がいない。バンドでならそれが得られるかも知れない。そうして、彼はやってくる。孤独であることの苦しみを、つぶさに感じてきたし、解決する方法を探している。成功したことがないのは、おそらく些細な問題のせいなのだろう。 

へーすけは風呂に、「バンドで、鎮魂歌を作らないか」と、誘われた。 


そうして、5人は集められた。5人の抱える問題は、個別のものであって、重なってもいる。学校に描かれた蛾を、5人とも見つけ出していることに、その予感はある。蛾を見つけたこと、その蛾に特定の感情を抱いたこと、彼等に共通する問題は、そこに集結するのかも知れない。物語の最後に、けんはこえに言う。 


「不思議と、誰の目にも止まらない場所がある。一匹の蛾が、止まれるくらいの大きさの。 
誰の目にも止まらない場所を見つけられる奴は、誰の目にも止まらない場所に、生きてる奴なんじゃないか?」 
「わたしのこと?何が分かるっていうのよ」 
「俺達のことだよ」 


彼等は、繋がり合うことが出来ないまま、別れていく。彼等は失敗する。だがその失敗に、 
その失敗の姿が、世界に起立する時多分、表現は成立する。 

関係不全、アンバランスな自己愛、大人との距離感、モラトリアム、震災の比喩からの世界との対話、自己実現の欲望、それら雑多の問題が、蛾を覘き穴にして、展開していく物語。