列と野鳥その後

只々日々

長い間デモを主催したいという夢を抱いてきた。夢のまま終わると思うので書き残しておく。

諾否を明らかにできない人々の作る列、「政治性不明さデモ」をやってみたかった。個人の意見をうまく言語化、体系化できない人々や、「わからない」「保留したい」「誰も信用できない」等の窪地で政治参加性から遠ざかっている人々、そういう人々が列をなすデモだ。

右派や左派、派閥未満の列なのではない、という点を強調しておきたい。シュプレヒコールに変換できない思いが並ぶ列だ。正直、極右や極左へのアンチなのには違いないと思う、でも別に、それが目的なわけでも、ないんだけどな。

この「政治性不明さデモ」にどういう名前を付けられるだろう。アイデアが湧いては消える。「?」プラカードを掲げる「はてなデモ」とか。各々が政治につけた点数を掲げる「採点デモ」とか。政治的な主張を禁じるという政治的集い「単なる集合デモ」とか。あとは、今日を遺影にして歩くことで明日を占う「今日1日を葬送するデモ」とか。

生活の中の具体的な願いを短冊に書いてそれを他人が読み上げる「読み上げデモ」とかいいかもな。短冊を隣の人にどんどん渡してって、どんどん読み上げて。そのざわざわした声が列になっている様子。

デモという行為に対して、ふざけたりかわしたりちゃかしたりしない。ただまっすぐに「今日のわたしはこうである」ということから政治性を考える、見つけていく、作っていく、そんなことができないだろうか、という夢だったと思う。

アイデアの元としては、「初詣の列」を政治性の列に見立てる、みたいな発想があったかな。

超漠然とした神道への信仰、明るくおめでたく屋台なんか出て祝祭的だが秩序立っていて、強固に日常的健やかさと結びついた光景、極めて参加性が高いが宗教的である以上排他的な側面もあるだろう初詣の列というもの。

わたしたちに「デモが遠い」けど「初詣の列」は容易い時、その二つを並べてみると初詣にも「政治性のようなもの」が透けて見えるような気がした。わたしたちのあいまいな部分が、知らず列をこしらえていく時に、それをうまく名付けることができたなら、詩を与えることができたなら、各々の中の政治性の解像度が上がる助けになるのではないか。そんな発想が、デモを主催してみたいと思ったきっかけだったと思う。

今はもう、僕は左派の人たちへの不信感があまりにも強すぎて、こんな槍玉にあがるようなことをする気力は残っていない。結局「愚かなノンポリを左右が侮蔑する」構図しか見えてこないしな。この夢は捨てる。でも僕は今後も多分「デモの列に並べない人」に向けて表現を作っていくだろう、気がしている。