考えない人

只々日々

もうじき、骨折してから一年が経つ。早いなあ。

右手のほうはまあいいのだが、右足の大腿骨への過重で未だ、強い痛みが出る。これもう一生治らないではないか、と思うくらいだ。

股関節との接続部の軟骨に不具合が出ている場合、治すには大袈裟な手術が必要になると聞いている。どうなることやら。とりあえず、足に刺さっているボルトは、そのうち手術で撤去する予定ではある。

今日、通勤時に「寒い」と思った。いつのまにか、秋である。時間が経つのが早すぎて、振り返ることが怖い。だけど、牛歩でも続けた作品作りに、救われているかな。作品を作る以外に自分を救う術を持たない、そのことに、人生で何度も繰り返し思い至ってきたし、また最近も、やっぱそうだな、てなっている。

さて雑記。

今まで見てこなかったのだが、半年ぐらい前から、各SNSのショート動画を見るようになった。気付き、驚くのは、その中毒性である。次々と短い動画を見流していくって感覚なら、テレビCMを見る時と変わらないお馴染みな感覚のようでいて、ショート動画の方がより節操がないからか、刺激的で耳目を引く映像のとめどない様に、つい時間を忘れて没頭してしまう。

海外アーティストの作るAI動画の幾つかに、今まで想像もつかなかった新しい映像表現を教えられ、驚愕している。だがそれ以外の大半は、「かつてバズったものの劣化コピー、5パターンくらい」でしかないし、総じて程度が低く、質が悪く、不誠実なものばかりだ。

だけど、見てしまう。映像、音、情報の刺激に、呑まれてしまいたい、ってなる。善悪や好悪の判断を停止し、ただただ次の動画へスワイプを繰り返す運動装置になってしまいたい、ってなる。ショート動画を見続けるのをやめないでいることって、何も考えたくない、という意思表示に似ているな、と思う。ばかになるってことだな。そういう、愉悦に浸っているのだ。

問題は、ここに思想や政治が入り込んだ時だ。なんか、ショート動画とカルトって、ベストカップルじゃないか?極論を正論に仮装させ端的にして一方的に擦り込ませてく。テレビみたいな自己規制も審査機構もないし、SNS動画の世界への浸透度と危機管理の釣り合わなさがすごい。AIの進化と併せて益々、危うさは増していくだろうに。

別にカルト以外だって、右でも左でもオカルトでも情報商材屋でも課金制ゲームでもいいんだけど、とにかく発信者が尽く「何も考えない、考えたくない人」をターゲットにしていて、それを特に隠しもしないままに跳梁跋扈する有様、合法公開オレオレ詐欺が垂れ流されてるみたいな状況に今更ながら、びっくりする。

そう、無心にショート動画を見流しながら「ばかになるって素敵」とか言ってる場合じゃないんだよ。スマホという、ドラえもんの道具と変わらない夢のような、人類の叡智の結晶を用いて、僕らの遮二無二にすることが、「何も考えないようにする」ことだなんて本当、安いSFみたいです。

「2001年宇宙の旅」とか「眠る男」とか「サクリファイス」とか、がっちり思想的でも対話的な隙間感のある、そんな作品と対面しながら、ゆっくり認識を組み換えるような時間を、思い出す。SNS動画が悪だなんて思わない。上手に消費できないのは僕の問題かもしれない。でも基本、SNSというコミュニケーション空間自体を批評的に捉え、半身でいた方がいいんだろうな、と思っている。