ひとはだどろぬま

只々日々

自分以上の社会不適合者など存在しないと思っていた。

10代の頃から、学校、習い事、血縁、そして生まれた町全体、それらの中で多分、僕は一番だった。壮絶な躁鬱を繰り返しながら、遂に高校3年には不登校になり、その後続いた引きこもりの生活もひどく長かった。この年まで正規の仕事はしたことがなく、漫画家になる夢は潰え、演劇活動も破綻している。お金のことでも、女性のことでも、目も当てられない失敗を複数回重ねているし、親不孝だし、自分自身を大切にできているとも思えない。

「たまたま生きている」だけだ。例えばよく思うのは、もしも出会いの縁があとちょっとマズい方向になっていたら、ドラッグに手を出すとか、詐欺や窃盗に関与するとかして、それらの中でも最悪のルートをわざわざ辿るようにして、捕まるぐらいならまだいい、死んだり殺されたりしてたかも知れない、ということだ。なんだか悪ぶっているように聞こえるだろうか。僕の不適合は陰鬱とした病方面のそれであって、不良方面のものではないんだけど、わかったもんじゃないなと思う。

そうしてみると、高校を卒業してすぐに地元の漫画家のところに転がり込んだことや、そこで演劇関係者と出会ったことは僥倖だったろうし、今も非正規だが仕事は続けられているのだから、境遇を呪うのもちょっと難しく、つまりは大体自己責任で間違ってきたということになるのだろう。そうかもしれない。

そうして人生の折り返し地点に立ってみれば、どうしよう、後ろ向きも開き直りもただ醜悪なだけなんだ。せめてサバイブしてきた経験を活かして、使える部品を点検し組み立て、それなりにマシな格好に自らをしつらえとく必要があるよな、とは思っている。

そう思う理由の一つにはこんなものもある。「自分以上の社会不適合者など存在しないと思っていた。だが次第に出会うようになってきた」というものだ。

職場で、こころの健常と障害、その境界線にかなり近い左右にある人たちと仕事をする機会が何度もあった。僕自身もその範囲の中の一人であろう。病名がついている人もいない人もいたが彼彼女らの、問題を起こしたり、仕事に来れなくなったり、「こいつ俺以上だな」という明らかに度を超えた不適合ぶりを散見しながら、一方で何が一体普通なのか、適合するとはなんなのか、しばしばわからなくなりもした。

ある若者は、休みがちどころかひどい時期には二日に一度しか出勤せず、来ても碌に仕事をせず離席を繰り返しては部署外でニコニコ愛想を振り撒いていたが、自分の行動が上司を退職に追い込む結果になったことを理解できない様子だ。

ある女性は、元気いっぱい来客や同僚の悪口を話しているかと思えば、気付くと廊下に寝転がってわけもなく泣いていたりする。

またある女性は、職員同士の不倫が絡れ、復讐の為だと詐病で1年以上休職し、その対応で散々周囲を困らせた挙句結局辞めていった。

もうじき30歳になる人柄のいいおっとりした彼は、こだわりが強くて、特に必要がない残業をやたらとしていた。車の免許は持っているが絶対に運転はしなかった。親と一緒に寝ていると聞いた時は驚いた。今は仕事を休んでおり、心療内科に通いながら、復帰の機会を伺っている。

全て僕に身近な人たちだ。仲が良かった人もいる。たまたま生きているに過ぎない、失敗した僕というもの、その程度の存在はもしかして、とてもありふれているんじゃないだろうか。不幸を掻き集めてもあんまり大したことはないって程度の僕は、まだ正す襟を残しており、それならば、痩せ我慢を続けねばならないのだ。

人肌の泥沼を棲家に、小さな花を描く為に時々出かけては、描いてる途中で匂ってきた焼き鳥を買って帰ってきちゃう的な、おおむねそんな感じの僕の人生だったが、明日は一体どっちだろうか。わからないけどとりあえず、よつばとの16巻が発売される方向へ向かおうかな。