功名の光明

只々日々

2泊3日入院し、右足大腿骨の抜釘手術を行なった。

月曜から仕事を再開している。術後の経過に問題がなければいよいよ、24年9月からの右手右足骨折騒ぎも終焉に至るが、大腿骨の軟骨に問題があるやもしれず、あまり楽観はしていない。

入院中様々なことを思い出した。骨折直後のあの期間、痛い、怖い、嫌だ、よく耐え忍んだな。

この機会に、怪我をして考えるようになった、二つのことについて少しだけ書いておきたい。

一つは、身体的苦痛が教える「逃げ場のないわたし自身」というものについて。

今回もそうだったが、背中を丸めて脊髄注射を待つ時、打つ時、尿道カテーテルを抜くのを待つ時、抜く時、あの恐怖と不安と実際の痛み、なかなかのものがある。どんなに「大丈夫大丈夫」と自分に言い聞かせても無理だ。幽体離脱できればいいのだが「身体というわたし自身」からは逃れられない。病院は「わたし=からだ」認識を修行する場であるかのようだった。

もう一つは、閉鎖的な環境下での「逃げ場のない関係」というものについてだ。

「骨々日々」では触れないようにしていたのだが、今回の入院でも思ったし、書くことにする。「病院の職場環境、人間関係」に問題がある時、そのあおりを患者が食うって事態、あると思います。ギスギスした空気が飛び火したり、ものすごくミスが多かったり。目の前で看護師と介護士がいがみあうとか、何度かあったしな。

患者は違和感を抱えても、あらゆることを面倒みてもらってる立場上、意見しずらい。そうしながら少しずつ「スタッフと患者」が「看守と囚人」化していく、そんなことが本当に起こってしまう。まあ「良い患者としてうまく立ち回れ」て話に過ぎないのかもしれない。病院も社会なんでしょうな。受け身でいすぎると不幸が待っている。

わたしとからだと関係と。その歪みを観察するような、矯正するような、そんな時間の積み重ねがあった。怪我しない方が良かったのに決まっているのだが、育った部分もあったと思っている。