気持ちテクスチャー

只々日々

「陽炎のうた」で石に執着する人のうたを作った。

僕の中に、石というものへの特別な思いがあったのだろうか。作ってる時は全く無自覚だったのだが、しかし最近になって気付き、考えるようになったことがある。

これは多分信仰に関係した話になる。墓石や石仏、石碑など、畏れ敬う信仰の対象物にはしばしば石というメディアが選ばれている。偶像やモニュメントは、人間の寿命より長くそこに在り続けてほしいものだろうし、まして屋外に設置するとなったら、選択される素材はまあ当然、石になりがちであろう。

なんだろう、石が外で神聖な顔をして苔むしていたりなんかしている時の「宿ってる感」てすごい。昔からずっと思っていた。石材店の軒先に並ぶ出来立ての墓や像を眺める時の、なんともいえない「宿ってない感」のこと。同じ物体とは思えないほどだ。そう、僕はきっといつも、石の経年テクスチャーに騙されているのだ。

これは木材の話になるが、寺や神社に赴いた時、修復の為に塗料を塗り直してあったりすると、がっかりする。直してあるほど化けの皮が剥がれていると感じる。「ありがたがる」時、対象の時間スケールが自分の時間スケールより雄大であってほしい、どうだろ3世代間、せめて100年以上、遠い過去未来に続いていてほしい、そう願望しているんだと思う。出来立て、塗り立てのものなら日頃沢山見ている。そうでないものを見たいのだ。

などと考えていくと、僕の信仰心は対象物そのものに対してではなく、それらの纏うテクスチャーへ向けられているのではないか、そんな風にも思われてくる。いやそれ、ありうる。

褪せ、欠け、痛み、雨風、草木に侵食されているもの。多分一番は雨、水に晒されているという点が重要だ。墓地にある朽ちかけの古い墓や石仏が、道祖神や狛犬が、僕には身近で、子供の頃それらの石に抱いた畏れが今の僕の適当な信仰心を形作っている、と思う。

ただそれらが古めかしいから、自分の寿命より長い間そこで承認され続けたものだから、テクスチャーの説得力に従っただけ、案外ただそれだけの、僕の信仰。

ま、そんなもんかなと思う。最近神社仏閣を敬う気持ちがどんどん減退しており、それはテクスチャーの捉え方の変化と並行している。僕の中のファンタジーは変わっていく。悪いことだとは思わない。