ぼくたちのはし

只々日々

異常に元気な猫を飼っていた。

今までに出会ったことのない、呆れる程人懐っこい猫で、帰宅すると足に擦り寄る、というよりジャンピング側面体当たりを100回かましてくるとか、人の顔面の上に顔面を乗せて寝るとか、いつも喧しく鳴いて、落ち着きがなくて、脱走癖のある、家中めちゃくちゃにマーキングするのが心底悩みの種の、猫だった。

猫砂を(人間の)トイレに流しにいくと付いてきて、フチに前足を掛けて自分のうんこが流されていくのをしかと見届けながらニャーニャー鳴く、自分のうんこに元気いっぱい「さよなら」を告げる、変な猫だった。

水を手で飲む猫も僕は初めてで、水皿の前に座って繰り返し手を舐めずっている時の背中に、妙な雰囲気があって、なんだか造形作家の背中のように見える時があった。なにかを作っていたのかも知れない。なんだろう。小魚とかだろうか。

虹の橋を渡る、と言う表現を知ったのは最近のことだ。三匹猫を飼っていたのだが、今月死んでしまった、今書いた猫を含めて、半年の間に二匹がその橋を渡ってしまった。二匹とも寿命というには少し早いかも知れない、患ってのことだ。それは寂しく辛い。気持ちの整理もついておらず、二つ並んだ骨壷を前に、動揺を散らすようにして、毎日を過ごしている。

僕も遠からず50歳になるのだし、老いるということは考えるようになった。10代を相手にする職場にいることも手伝って、僕らのこの「順番に生まれては育っては死んでいく」ということについて、前よりは見えるようになっていると思う。愛猫の死に近くいる時、存在するということが風のようだ。ここに居るというより、どこかへ絶えず流動している。それが悲しいわけでも嬉しいわけでもないが、なんだろうか、救いなような気はする。