るろるろする居場所

只々日々

わたしの意見はこうである。

と、立場を表明することが、口汚い罵り合いへの参戦を意味している。では沈黙を選択したらどうだろう。無責任で加害的だと罵られる。当たり障りない趣味嗜好の話でもしてみようか。背筋に侮蔑や嘲笑の予感が漂う。息苦しい。少しでもダメージを避けようと、どこかに平和で安全で閉鎖的なコミュニティはないだろうか探しながら、とりあえずは長いものに巻かれていよう、そんな風にして多くの人が、生きているのではないか、て気が、してしまう。

陣営に組みするということが、辛い。どちらの側でも少しでも、足を踏み入れれば、極左か極右か、拡大鏡に映されたそいつが大きな獣のようにそびえていて、ほとんど自動的にその獣の足元が居場所の、フォロワーであると見做されてしまう。中央辺りに身を潜めても、「お前が最も卑しく愚かだ」と双方から拡声器の怒鳴りが飛んでくる。仕方がないのだ。活動家にとってレッテルを貼ることは呼吸をすることと同じだ。やり続けなければ死んでしまうのだろう。

いやしかし、極中道という言葉もあるようだ。左右を排除しようとすることだって無論、政治的なイデオロギーのひとつに過ぎないだろうが、それにしても、「僕たちは何かの極端である」という世界観を生き続けるのは、正直多少、疲れる。ああ、またどこからか、甲高い声が響いてきたようだ。アジれ、デモれ、ディスれ、めくれ、燃やせ。活動家か、迷惑系か、文春か、その全てかも。ふと気がつけば、僕は耳を塞いでいる。

ところで最近、ずっと考えていることがある。

少し前に職場で大量の不要品を処分した時のことだ。長期間処分を保留していたものらをいよいよ片付けようとしたら、ぞろぞろと出てきたのが、30年以上前、バブルの頃に寄贈されたらしい大量の雛人形や五月人形、クリスマス飾りなどだった。

当時結構な高価だったろうそれらは一見豪華に見えて、どれも手にすると妙に軽く、傷んだプラスチック製のパーツがいかにも安っぽく、なんていうか、ハリボテなのである。まあそんなもんか。いっとき部屋に飾りつけて気分を味わう為のものなのだし。

廃棄の為に雛飾りを細かく分解するなどしながら、不意に僕に、子供の頃の或る記憶が蘇ってきた。祖父や祖母の葬式の際に親の実家に出現した、豪勢な祭壇のことだ。きらきら回る回転灯籠を見ながら子供心に感じた、「厳かなひらべったさ」のことを、思い出したのだった。

葬式の祭壇が単なるハリボテに過ぎないことなど、殊更に指摘しても詮無いだろうが、「昭和のあの頃の無駄」を眺める時、立派な雛人形や鯉のぼりやツリーを飾ることと共に、並んでいるように思う。あの頃、人々は見栄や世間体、常識という言葉を掲げて、まっとうな中流であろうとして、一生懸命に、無駄なことにお金を使っていた。みんな儲かっていたのかも知れない。だけど誰も、お金をどう使うべきか多分、知らなかったんじゃないかな。

特別誰にも愛されていない形骸化した虚構を、プラスチック製のしきたりを、あの豪勢で安っぽい祭壇を厳かひらべったく拝むようにして、みんなで守っていた時代。

昭和の終わりに産まれた僕らは多分、それらを疑いながらも何十年も、キープし続けた世代だ。老人たちが死んでいくのをゆっくりと待ちながら、不況や震災やパンデミックを経てようやく今になって、「ずっと変だと思ってました」と声をあげはじめたのだ。

フェイクチャペルも生臭坊主も体育会系もブランド志向も滅んでしまえばいいと思う。コンプラやハラスメントの問題が槍玉にあがれば、我が意を獲る思いもし、それはかつてのマイノリティとマジョリティの考え方が入れ替わった時、満たされる復讐心のあるせいだろう。

だけど実際どうなんだよ、声をあげたのは僕ら自身だっただろうか。世界を前進させ変化を促したのは、批評を繰り返し革新を目指したリベラルな人々とは、僕らのことだったろうか。違うだろう。弱者の癖にざっくりと保守を支持しながら、ただ待っていただけの人が大半で、僕もその一員だった。

耳を塞ぎ、内輪で閉じて、長いものに巻かれながら、生きている。冒頭に書いたのは、「こんにちの僕たち」を素描しようとして、ただ自画像を晒したに過ぎないものだ。知性や性能の問題が故に、僕にできることは少ない。だがやはり、違和感を声にあげることの意義や価値を認め、実践者であるべきだ。

反省と決意を胸にゆっくりと、両手を塞いだ耳から離す。ああ、でも、そうか、うーん。そうだな。どうだろう。世界に付ける音量の、ツマミがどこかにないものだろうか。