ドレミファりろん

只々日々

なぜ人はうたうのだろう。

僕はこう思っている。生きている。ぼんやりしている。大きい感情も小さい感情も、あるだろうけど、みんなもっと、毎日を、単に、生きている。

気持ちと言葉は、いつもきれいに繋がらない。大切なことだけを、言うべきことだけを、言えたりなんかしない。自分の気持ちを、正確に捉えて、言葉に変えて、的確に相手に伝える、そんなことできない。基本的に、単に生きて、ぼんやりしている。

しかし、生きること、気持ちの姿、必要な言葉、それらが明らかになった上、ひとつのセットになったものが存在している。そしてそれはいつも傍らにある。「うた」だ。

「いのち(リズム)ときもち(旋律)とことば(歌詞)」の関係や要素に、一旦答えを与えたものとしての「うた」。抽象の海を漂ったままの気持ちや言葉が、鼓動を伴ってあるべき場所へ向かおうとする時、叩き、奏で、唱えて、僕らは「うたをうたって」いるのではないか。

こんなこと、わざわざ書くまでもないような当たり前のことしか書いてないような気もする。

今までしてきたこと、これからしようとしていることについて簡潔に書いておきたい。演劇を続けながら僕は多分ずっと、「届かなさ」を表現しようとしていた。「届かなさ」とは、分かり合えなさとか、伝える必要がないこととか、主義主張未満の感情とか、そもそもなにをどうしていいのかわからない人のこととか、まあそういったことの表現だ。人の「届かなさ」はなにせ「届かなさ」なので、観ている人にも届かなかったりするっていうばかみたいな事態に、よく陥っていた。

僕が今音楽を作ろうとして、考えているのも、やはり同じで、通常の音楽に満たないものを音楽として扱おうとしている。誰もがそれを音楽とは認めないが、僕にはそこで、いのちときもちとことばが確かに、うたとして聞こえるような気がして、だから、そこを目指そうと思っているのだ。