以下の日記は、5月の頭頃に書いたものの没にしたものだ。変に高ぶっていて、まとまってないしと感じて、アップするのをやめたのだが、この日記の内容の一部が、先月観たお芝居の感想と重複する部分があると気付き、掲載することにした。
そのお芝居はコロナ禍の状況を扱った秀作で、地元に拠点のあるプロの人たちが関わっているものだ。劇の終わりに出演者が挨拶する中では、困難な活動の状況を涙ながらに訴える様子もあった。
本当は、劇について具体的な感想を書けたらよいのだけど。申し訳ないです。とても面白かったです。
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20210508
くそちらかった脳味噌を整理する為にたまに、この日記を利用している。
のでそうする。世の中非常事態宣言中である。ここ群馬は対象外だが、警戒度が最大の4にあがった。公共施設の利用が難しくなり、本番を控えているのに稽古場に困っている。
自分たちの活動が不要不急なものではないのだと、声高に主張する気にあまりなれないのだが、流石にちょっと書いておきたくもなる。演劇することの価値や意義についてだ。
僕の作るものが値するかどうか特に自信はないてか、いや全然わからない上、僕はあまり演劇作品に触れてきていない。寺山さんとか清水さんとか鴻上さんとか野田さんとか別役さんとか太田さんとか平田さんとか宮澤さんとか岡田さんとかの、ひとつまみの10分の1くらいしか僕は知らない。演劇のことなど大して分かってない僕でも、しかし思う。現代演劇が時代に新しい感覚を作る時、その空間的身体的な発明と出会う時、人はきっと以前より自由だろう。素晴らしい作品に出会うことは、行って良い場所が増え、語って良いことが増えるのに似ている。
それはこんな災禍の元であればこそ、力になるかもしれないものだ。だけど今僕らは風あたりにしんしんと冷えて、口数を減らしている。僕のようなアマチュア演劇する者は、本当にただ馴れ合う為だけに、夜な夜な集まって、無為な時間を過ごしてきたんだろうか。違うだろう。その稽古場に、本番に、分かり合えない人とさえ集うことができる、テーブルを作る為だ。傷を負っても掘り進むのは、作る人たちの鼻にみんなと分け合えることの出来る水源が匂うからだ。一人ぼっちになっても、誰かを、自分を、憎まなくていい方法を考えることができるような、優しく豊かな場所を守る為だ。
本当にそう思うのだが、けれど今、こんな抽象的なことを並べても自己保身か綺麗事にしか聞こえない。演劇する行為全体にある感染リスクを正しく評価し、時世を知り、判断を下すべきで、当然この時「演劇の稽古を、公演を中止すべき」となる場合もあるだろう。
今、「何をして良くて、何をしてはだめなのか」の境界線が、様々に引かれている。最近特に思うのだが、政治とは境界線を引くことなんだと思う。それは必要なことだ。だけど同時に政治は、境界線から埒外に置かれた人たちからの批判を永遠に浴び続けるのが必然だ。
今、政治家が引いている線のみならず、行政が、業界が、個人が、それぞれに引いた線のもつれ合う様がある。僕の体を横切っている線だって、あるだろう。
僕は正直どこか「演劇なんてなくても良い」という人の気持ちがわかる。控えめに言えば「演劇のことを考える程暇じゃない」という人の気持ちがわかってしまう、となるだろうか。そういう人からはきっと、無駄に煩い声に聞こえるに違いない。しかし表現は、誰かの引いた境界線を観察し、リアクションせずにはいられない。そうすることで、昨日より複雑で、面白い世界が現れると信じている。というか多分そもそも、劇団は基本、その境界線の上でうまれてくるものなのだろうし。