「はこいるむすめ」のことをもう一度考えておきたい。
「明日の運動会雨で中止になればいいのに」的な暗い願望を知っている。僕自身の中にも、好きな作品の中にもそれはあった。押井守や庵野秀明が永遠の文化祭や他人のいない街に描いたファンダジーに、魅了されたものである。
しかし、阪神大震災の光景にAKIRAを透かせないのだと分かってから、或いはオウムや9.11や対テロ戦争やの前に、ゴジラやランボーやスターウォーズが無邪気に踊れないのだと分かってからは、どうだったろうか。現実がフィクションを追い越していくのを何度も目の当たりにしてきたような気がする。
現実がフィクションを追い越す、非常事態宣言下の風景もそのようなものに感じられた。僕たちの生きる街に閑散は大変やすやすと現れた。ハロウィンの狂騒がコントールできないのと同じように、自粛要請にも反自粛が抗うのかと思いきやそうでもなく、優しさや思いやりよりも同調圧力の色濃いその風景には、世界が新型コロナそれ自体より余程重い病に罹っていることを感じたものだ。
いらないものを買い、食べなくてもよいものを食べ、暇よりはマシとお出かけを繰り返すという消費行動が、僕らの守るべき日常なら、一時控えることに問題はないのかもしれない。だけど僕は、自粛期間の閑散が怖かった。不浄な他人を拒否したのだという感触が痕跡になって残って、いつまでも消えないのではないかと思った。客商売への冷淡さにも驚いた。演劇への冷淡さには驚かなかったが。
藤子Fの「みどりの守り神」や「ひとりぼっちの宇宙戦争」に、孤独は希望に連なっている。子供の頃の「明日の運動会雨で中止になればいいのに」的な暗い願望も、そういうフィクションの中へ溶かしていたものだ。だが、現実がフィクションを追い越せば、溶ける先がない。
だから僕は、自分の為に「はこいるむすめ」の続編を作りたくなったのかもしれない。自分の暗い願望が溶ける先、今この時のフィクションを。
「はこいるむすめ」たちは、自分の中のエラーを観察する時の、研ぎ澄ましかたを知っている。そしてばかに饒舌だ。その声を聞きたくなったのだろう。