しんきろうする

只々日々

芥川龍之介の小説に「蜃気楼」というものがある。今久しぶりに読み返してみた。

芥川の作品で一番好きなのは「歯車」だが、2番目は「蜃気楼」になるだろうか。どちらも晩年に近い作品だ。「歯車」はかなり自死の予感が色濃いが、「蜃気楼」は淡々と、大した出来事のない時間を素描したものである。がしかし、やはり全体に陰鬱としてはいる。

「蜃気楼」は他の技巧的で隙のない文章と違い、言葉が妙にすとんと落ちてくる。僕は、特に一章の最後の「そこへ青白い犬が一匹、向うからぼんやり尾を垂れて来た。」の一文が、全芥川作品の中で一番印象深いかもしれない。なんの伏線もなく、ただその一文だけあって終わるのだが、はっとするような、腑におちるような、置いていかれるような、変な気持ちになるのだ。

海岸を散歩し、自身に燻る病を掠めながら、中途半端に見える蜃気楼のことや、漂流物のことなどが、描かれる。友達や妻が登場する。物憂く、切なく、平穏な、1日のこと。まあ正直、「このあと芥川は死ぬんだ」という気持ちが、読み方に影響を与えてしまっているとは思うが、時折思い出し、この小説の持っている空気感を羨望している。

インテリできどりやで脆弱で女癖が悪く無責任に死んだ人、なのかも知れない。でも「蜃気楼」には主張も否定も皮肉も自虐もかっこつけも、なりを潜めていて、もっと呼吸に近い場所に収まって、何かを許そうと試みているかのようだ。例えば僕らに、愛しい人と悪い別れ方をした記憶があったとして、それを思い出す時には、案外ただ傍らで呼吸した無形の時間だけが、鮮明だったりするのかも知れない。なんだろう、そんなことを考えている。