きりつちゅうもくかんらんしゃ

只々日々

観覧車のことについて考えてみたくなった。

人生で何回観覧車に乗っただろうか。僕は数える程しかなく、子供の頃に2回ぐらい、大人になってから4回ぐらい、せいぜいそれくらいだ。多分僕は観覧車を「侮れないエンタメ乗り物」と認識しており、しかしどう侮れないのだろうか、では早速検証していこうと思う。

観覧車は絶対に丸い。そして絶対下から乗り降りする。そして眺めて絶対思う。ゆっくり回ってんな、と。上の方は結構高いんだろうか、なんて思う。観覧車って、そうである。ただそれだけの乗り物だ。

ジェットコースターやおばけ屋敷と一戦交える前なのか後なのか、つい観覧車にマウントをとってしまうのだが、しかしどうだろう、観覧車には思ったより多彩な表情が潜んでいる。

まず、乗る時毎回怖い。動き続ける観覧車に乗り込むとか怖すぎる。一旦自分がアクション映画の主人公だと思い込まないと無理である。後ろの親子連れやカップルに対して恥ずかしいから平然としていなければならず、従って、内側ブルースウィルス外側普通のおじさん状態を維持しながら挑むことになる。頭によぎる、昔スキー場のリフトに乗り損ねた記憶。がんばれブルース。だが外には出てくるな。内も外もブルースの時、僕がどうなるのかもう意味がわからなくなる。

暴走バスに乗り込むばりに意を決して観覧車に乗り込み、腰をおろせば、やはり観覧車の歩みはゆっくりである。頂上はまだずっと先だ。次第に滞在にも慣れ、周囲の眺めの新鮮さを楽しむだろう。「ここからあそこが見える」「あそこに行ってみたい」などと会話も弾むが、頂上は刻一刻と迫っている。そう、頂上に罠があるのだ。

観覧車の頂上って、なぜかいっつも、思ったより高い。嘘だろ、と思う。そんな筈はない、ちょっとずつ昇ってきたのに頂上だけが高すぎる。外から見た時は綺麗な円だった筈だ。だが、今だけ頂上のところが出っ張ってるんじゃないかと疑う。下にいる係の人に大声で叫びたい。「今日だけ上の方がとんがってませんか?大丈夫ですか?とんがってますよ」と。混乱の最中不意の風に揺らされたりして、思わず死を覚悟して、数珠を握り締めようとするが、数珠なんか持ってない。観覧車に乗る人は全員数珠を持っていない。そんな絶望に震える僕に、そっと数珠を差しだす、内側ブルース。僕は内側数珠を握り締めて、頂上のとんがりを呪うばかりだ。

等速度で進み続ける観覧車は、僕の混乱をよそにエンディングに向いはじめる。くだる観覧車は一連の物語をクールダウンさせながら、僕らの日常へと続く出口に導くだろう。この「終わっていく時間」が全体の半分を占めることも、観覧車の案外悪くないところかも知れない。観覧車はなにかいつも、はじめ期待値が低く、乗れば様々に楽しく、それでいて「もう1回乗ろうか」ともならない後腐れの良さもあって、要はだからそう、侮れないのである。