とりひともぐら

只々日々

外で仕事をしていると、職場の敷地内のあちこちに、もぐらの掘った跡、もぐら塚を目にする。もぐら自体を目にしたことはない、いつも形跡だけを見るのだが、もぐら塚を見かける時が、「僕の行動範囲に別のレイヤーがありそこで盛んに生きるものの世界がある」のだという、当たり前のことを思い出すタイミング、になっている。

鳥を見ていてもそういうことはたまに思う。人間と、人間の生活圏で生きる鳥たちが、互いを身近な背景としながら、人は地べたを、鳥は頭上や空中を往来する。鳥と人ともぐらの、高低の層を分けた生活を一枚の絵に変えて眺めながら、僕は多分、縮こまった内的な世界を少し広く大らかへと、矯正しようとしている。

いやというよりかそんなこといったら、地球上に生きる全ての生命がそのように重なりある別レイヤーを暮らしているのであって、殊更に鳥やもぐらについてだけ言うのは変だろう。ただ、僕にとってのシンボルであるという、だけのことだ。

などといつも日記を、ノートパソコンで打っているわけだが、先日外で仕事をした時にくっついてきたであろう小さな蟻が、ディスプレイの上をウロウロ歩いている、そういう出来事があって、それがとても不意なことで、そしてなぜかすごく、感動したのだった。

ディスプレイの光の上に蟻は、やたらと輪郭があらわだった。蟻は僕の小賢しい文字の上を、連綿と引き継いだ遺伝子を乗せて進んでいく。11ptのヒラギノフォントより余程小さいが、並ぶと蟻はひとつの文字のようにも見え、僕の打っている日記に出現した、エラーのようでもあった。

僕と世界が重なり合う時に吐き出された文字化けのような蟻は、なにか幸福で理不尽なエラーを知らせて、いつの間にかいなくなった。僕たちの隣人は、いつでも本当の世界を生きている。その絶望的な距離感が、なぜか少し楽しい。