「HORNS!」の終わりに

只々日々

灰ホトラの公演が終了している。

6人の女優が、8つの小作品を上演する、70分の公演だった。場所は前橋市街地のフリースペースで、劇場ではないが、自分達のやりたいことを自由に扱える場所だった。

集客数は目標に届かなかったが、素晴らしい観客たちと出会うことができ、濃密な時間を得ることができた。好意的な感想を沢山いただいたり、差し入れを沢山いただいたり、暖かく見守ってもらえたことに感激している。

演劇する状況を成立せしめるのは、観客の存在である。ご来場いただいた全ての観客にこころから感謝を、本当にありがとうございました。

さて、内容のことである。

「うたとおどり/ちけったれ」「パラレルモノローグ/だからかもだし(再演)」「一人芝居/フーの鼻(再演)」「一人芝居/ 月が痛い」「一人芝居/楽園の男」「3人芝居/狐時計」「コント/みつめまみ」「二人芝居/炊事洗濯魔法陣(再演)」

「分かりづらい」「捉えづらい」といった複雑さ、微妙さを、あまり持たない作品だけで公演を構成する、というのが当初からのコンセプトだった。いずれの作品も基本的には「ちゃんちゃんで終わってただそれだけ」というものばかりだ。

それでも、各作品から余剰するものがおそらくあって、それらは多分「衆愚、愚かさの痛み」へと連なっていく。

ナイーブなばかは、ロジックに勝るばかの腕力を手に、これを持て余している。しかし自らの血圧がいつまでも沈黙を許さない時には表出してしまう、ことばや動きがあるだろう。それを表現に見立てていくというのが、灰ホトラの基本ラインなんだろうと思う。正直、僕の自画像そのものである。

などというのは、今回の公演を終えて初めて言語化でき、自己発見できたことかも知れない。上の基本ラインなるものは、「ちけったれ」「月が痛い」「狐時計」など、今回の為に書き下ろした短編に極めて端的に現れている。

女優たちは皆、頭にツノを付けていた。当初は、「みんながツノを付けてたら可愛いかな」程度の思いつきに過ぎなかったが、「動物性」だの「超越性」だの「遊戯性」だの「寓話性」だの、様々な要素を喚起する記号ともなっていただろう。

いやしかしどうなんだ。書いているこの瞬間にはっきり自覚したが、女優たちの付けていたツノは、彼女たちに寄生した僕の男根であったのかも知れない。僕はいつも無自覚に、自らの病理を自分の表現に刻んでいるようだ。なんなんだこいつは気持ち悪い。どうしようもないなと思う。

表現しなければ生きられない、しかしそれはみっともない。そのままならなさを続けていく。そんなもの、観客が「面白かった」と言ってくれること以外に、正当性なんかないだろう。恐ろしい綱渡りがこれからも続く。どこまでいけるだろうか。