乗り遅れたバス

只々日々

「Take Numbers」進行中。 

参加者のあったことを大変ありがたく思う。作品や活動について共に話をさせてもらうと、意外で新鮮な視点に気付かされるんだけど、贅沢なことである。作品の肩こりのようなもの解けていく感覚があった。今後も良い時間が続くよう頑張りたい。 

さて、アーツ前橋「闇に刻む光」展、及び「前橋身体論」映画鑑賞ツアーのことを少し書いておきたい。 

アーツ前橋では現在、1930年以降のアジアの木版画運動を鳥瞰する、ダイナミックな企画展示が行われている。連動して、シネマ前橋では韓国の抵抗運動を扱った映画が上映されており、この鑑賞ツアーに僕は参加した。 

映画は「タクシー運転手」と「1987、ある闘いの真実」だ。韓国という国に対して僕は、非常に偏った情報しか持っておらず、この矯正になるやもと、だから映画を観るのを楽しみにしていた。果たして映画は大変面白く、というか、とても良く出来ていて、鑑賞時間をあっという間に感じた程だ。 

感想会では、題材当時に思い出のある人や、韓国に滞在していた人の貴重で興味深い話もあり、非常に有意義なものだった。 

ところで僕には、映画に対して、或いはアーツの展示について、ずっとモヤモヤした気持ちを抱き続けており、それをなかなか、ことばにできないでいる。今、少し頑張って書いてみたい。 

震災以降、灰ホトラの表現に鍵となる或る思いが宿るようになった。僕は「どうしていいかわからない人」のことを描きたい。それはほとんど、「デモに参加しない人」のことに等しい。どちらの映画にも、「どうしていいかわからない人」が重要人物として登場し、やがて「どうしたらいいのか」を見出し、デモと共闘するようになっていく。映画内でその意識の変化は、社会状況に巻き込まれていく様子を丁寧に描くことで、きちんと動機付けられていた。 

「世の中を変えたい」「大切な人を守りたい」とそれぞれに使命を帯びていく若者たちの様子は、気高く、美しい。僕にも世の中を変えたいと思う時がある。だがそれは果たして、どれほど切実な願いだろうか。 

そうして、自らに不気味な予感がする。気高く、美しく生きようとして、自らが極端な状況にあり、切実な願いを持っていると、捏造したいのだ。多分、右でも左でもどっちでもいい、端に寄る程熱くなれるだろう。きっとそこで、色んな手間が省けていく。「何を表現すべきか」わかるところ。喉から手が出そうになるよ。 

勿論、そんな欺瞞が許されるわけがない。僕のこころとからだが現わせることは、ごく限られたものに過ぎないだろう。あんまり立派じゃない上に、いじましくすらある。だけどそんなもんだし、それでいいんじゃないのか。問題は、現わせるものを、この働く引き篭もりのうたううたを、誰かと、何かと、響き合う場所に置くことだ。