夏の花は向日葵だけじゃない

只々日々

脳内整理の為に。 

「Take Numbers」と称する公開稽古撮影イベントを複数回行い、ひと段落している。10分の作品に対して相当量の映像素材が集まった。稽古場に来てくれた人達、優しい眼差しでもって関わってもらい、ありがたく思っている。 

公園や街中、路上などでも撮影を行ったのだが、これがとても良い経験となった。自分で驚くのだが、様々な場所で演技して違和感がなく、よくこんなものが作れたなと思っている。遊戯的な演技体と、それを扱う役者の嘘のなさは、この作品を価値づける大きな要素と言えるだろう。 

灰ホトラは普通に、へっぽこである。そのことを無視して作品を作るつもりはなく、いやむしろ、稽古風景をそのまま作品化しようなどとは、自分らのへっぽこぶりを愛でようする、側面もあるんじゃなかったか。そうだ繰り返し自分に言い聞かせている。かっこつけてもしょうがない、ただできることをやるのだ。 

それはなにも、適当でいいと言っているのではない。アートスペースから声がけをもらい、近々の或る期間、「ひねくれもす」の展示及びパフォーマンスを行う計画があるのだが、自分自身を洗い直すようにして、今一度作品の狙いをきちんと言語化していく、という作業をしている。 

僕はそもそも、いろんなことを無自覚にやっているから、理屈を考えていると本当に、脳がへとへとになる。だがやるしかない。ばかなりに言葉を磨くことが必要だ。 

更に、公共施設から楽曲制作の依頼がある。コンセプト立ては終わっているが、曲が形にならないままだ。〆切が迫る。曲作りは、最初の一歩が決まるまでが、果てしなくつらいのだが、今回もそうだ。いや分かってる。僕に求められているのは「そこそこの音楽」なのに違いない。けれども、「そこそこの音楽」を、狙って作れる程の手練れでもないんだよ。のたうちまわって進むしかないのだろう。 

最後に先日観た地元の「インプロ公演」のこと。 

会場に自由な気分を醸成し双方向性をもたらすよう対話的な態度で、そして虚構性とは別のもので観客と共感を作ろうとした、彼等の狙いは成功していたように思う。僕は率直に言って驚いたし、なんだか喜びすら感じた。 

喜びを感じる、というのは、これで地元の演劇シーンが、もう少し複雑になるかな、と思ったからだ。インプロは理念や技術がとても具体的だから、フォローであれアンチであれ、立場を明らかにすることが容易なのだ。確たるひとつの「方法」が、こうしてシーンに挿入されれば、みんな考えねば、反応せねば、変わらねば、ならなくなっていく。そのことを嬉しく思ったんだと思う。「考える」と「変わる」ぐらい、シーンにとって大切なことなどないのだから。 

しかし僕がもっとも感じたのはなにより、役者達の純朴さだよ。思い知ったというか、考えさせられたというか、とにかくまっすぐで疑いがないのだ。 

啓発や啓蒙、洗脳のシステムに、無自覚な劇作家や演出家はいない。それらは演劇とあまりにも親和性が高いからだ。そうして僕は、インプロのことを少し、怖いなと感じている。インプロの理念は美しいし、演劇の現場でどんどんシェアされてよいものだろうと僕も思う。 

しかしどうだろう、僕は多分、「インプロが下手なやつ」が好きなのだ。出来なさの中にこそ、アイデアがあるのだし、歪みこそが世界を立ち上げる。何が虚構を渇望したか。ディスコミュニケーションを世界に突き刺すようにして、産まれくる作品を信じている。