うぐいすがないている

只々日々

出勤すると、職場の隣の神社から鶯の鳴き声が聞こえてきた。それがその時なんでか、馬鹿みたいだな、と僕は思った。まるで明朝体カタカナのホーホケキョが収まった漫画の吹き出しが、不意に飛んできてぶつかったって感じがして、もちろん馬鹿なのは、そんなことを思う僕以外にない。それに別に鶯の鳴き声なんてここのところ、よく耳にしていたんだけど。春が時々、滑稽に思える、変だろうか。

新年度になれば人の入れ替わりなどもあって、慌ただしく、不安定で、落ち着かない。ここ北関東の山の中腹、職場に新しくやって来た人たちの、どたばたが凪に変わるのには5月はまだ、早いかもしれない。一方異動してきて既に2年が経った僕はといえば、先日敷地内に猪のいた形跡を見つけて慌てふためいて事務員に報告しにいったところ、「猪?だからなに?」的な、猪ごとき日常です的にあしらわれ、「猪はしゃぎおじさん」認定されかけるぐらいなのだから、いやつまりまだまだ全然だめである。慣れません山の生活に。

しかし、この超絶不適合発達障害中年男性にも、生活リズムはゆっくり浸透し、ケロリン桶ぐらいのスペースのこころの余裕は次第につくられ、にゅるり顔を出すのは、作品づくりへの欲求である。いや違う。余裕ができたところでなかなか作品づくりに至れない問題点こそが、顔を出してるのだと言ったほうがいい。数年前に音楽活動の青写真を描いて後、いまだに一歩も動けずにいる。

こうして久しぶりに日記を書いているのは、少し自分の中のことばを動かさないと、少しでもことばを動かしていけば、何か変わるかもしれないと思ったからだ。

つまり硬直した言語感覚が、顔を出した問題点のひとつだったということだ。あまり人と会っていないことや、鑑賞が減っていることも問題だろう。かつての演劇した暮らしに刻まれた失敗や後悔や増悪の消えていないことも、問題だ。これってウルトラファインバブルでも吹きつければ消せるだろうか。ケロリン桶で汲んだぬるいをお湯をかけてはいるのだが、ちっとも消えないっていうか、でもまあ、演劇についての慚愧の念ならもう放っておいてもいいだろう。僕はもう演劇に関わることはない。

それから、表現活動において自分が主導していないどういう制作にも関係しないと決めているのだけれど、しかしまあ新しい職場で「ちょっとイラスト描いてくれる?」的なお願いがまた増え始めて、掲示物とか印刷物とか、餞別の贈り物とかの為に、イラストを頼まれて最近いくつも描いたのだが、そういうことも実は相当久しぶりで、ふと気付くと、なにかの凝りのほどけているような、軽く乱視の治まるような、きもち肺の伸縮の滑らかなような、足の小指に少し筋肉のついているような、全部気のせいかもしれない、しかし思い出すのだ。些細でも何か創作することが状況や関係を変えることがある。というか現に今まで、そういうことを繰り返す人生を、送ってきたんじゃなかったか。

或る穏やかで平和な1日のはじまりに、鶯の鳴き声が滑稽に思える程の、安全呑気でちょっと照れくさい、うっかり前向き気分のおじさんが、なりたての花粉症にむずむずしながら、春に立ちすくんでいる。この先に誰も僕を待ってはいないだろう。それでも、生きる為に作らないといけない。